黄金山善照寺の本尊「阿弥陀如来」は、別名「浮足如来」としても知られている金剛仏である。
ある夜更けのこと、この寺に一人の泥棒が忍び込んだ。如来が黄金でできていると聞きつけ、盗みに入ったのである。本堂の如来を見つけた泥棒は「素晴らしい仏像だ、俺は金持ちになれる」とよろこんで持ち出そうとした。しかし、如来にかけた手が吸いついたように離れず、力が入らなくなってしまった。それでも盗み出したい一心で吸いついた手を振りほどき、何とか縁側まで引きずり出したが、今度は金縛りにあったように手足が動かず、如来を背負ったはいいが重くて立てない。こんなことをしていたら捕まってしまうと、何も取らずに逃げ帰ったそうだ。この話はあちこちに広まり、泥棒除けになると信じられるようになった。如来の右足は台座から少し離れていて紙一枚が入る程の隙間がある。この隙間に紙を入れて足型をとり、置いておくと泥棒除けのおまじないになるという噂が広まった。以来、この如来は浮足如来と呼ばれ、人々に親しまれるようになった。
如来は、その由来についてもいろいろな伝承がある。播州加東郡久米村の大井ヶ池より出現の霊像で、朝光寺の僧如意坊が夢告により阿弥陀如来を背負いて船坂に赴く。阿弥陀如来を安置せよという同様の霊夢を見た善照寺住職の善想は迎えに行き、金仙寺にて二人は出会い、同道して善想庵室に入る。(寛正二年九月二日付『善想拝の由来緑起』)
同じような伝承で、加東郡久米村(現・社町久米)の塩寺家に伝わる話では、先祖の喜兵衛という人が、ある日井戸へ水を汲みにいったところ、そばのかも池に阿弥陀如来が浮いていたそうだ。像を持ち帰り仏壇に祀ったが、仏は夜々「船坂へ送れ、送れ」と寝かせてくれない。喜兵衛は桐の箱に仏像を入れ、木綿の紐で肩に引っ掛け有馬の方向へと行き、善想と出会う。
『新修加東郡誌』の「黒い阿弥陀さま」伝説も興味深い。ある夏の日喜兵衛というじいさんが小さな池で黒い阿弥陀像を拾いあげる。像は夜毎「舟坂へお返し申せ」というので送ることにして進んで行くと。善照寺の僧と会った。僧は「盗まれた像が夢に現れ、迎えに来るようにというので行くところです」と話した。純金の像は盗難予防のため黒く塗られていたという。
また、久米村の「西教寺の寺伝」によると、新田義助の臣の粟生尭信という者が摂州の合戦に破れ、久米の地に遁世の居を定めた。その四世の喜平治が、池中から黄金の阿弥陀像を発見し仏壇に安置した。夜々同様のことがおこり、喜平治は船坂へ向かうことにした。途中で夢告により迎えにきた善想と会い、善照寺に安置した。寛正二年という。喜平治は、これが縁で仏門に入り、その後、蓮如上人に帰依得度した。名を実乗と改め、賜った六文字名号を持ち帰り、草堂を建立した。この一文字は、その後東旭山・西教寺と号し、初代住職は実乗とされる。
別に、上久米村の『日照山東光寺略縁起』によれば、寛正年に山の麓に寺があり、大日尊・阿弥陀仏を祀っていた。あるとき、大雨で山が崩れ寺は土中に埋まった。翌日に山上に幡の形が現れ、村人が峰に登ると大日尊がおられたので草堂を造り安置した。もう一体の阿弥陀仏はなお地中に埋もれていると思われていたが、その後摂津国船坂の人が夢告により、訪ねて来て、山の南の池の中より阿弥陀仏を得て、船坂で祀り、その後、上久米の庄の人が船坂に行きて阿弥陀仏を拝する。と伝える。
これらの話から、如来は久米地方から伝えられたものであろうか、あるいは、僧善想が阿弥陀信仰を広めんがための由来縁起創作か、黄金仏としての噂が久米のあたりで有名であったため由来縁起なのであろうか。古くから船坂と久米地方との交流があったことだけは間違いない。
『やまぐちの里』
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