山口村歴代村長
初代 松原 嘉平 明治22.5~26.5
2代 芝 虎之介 明治26.5~38.11
3代 梶本 房𠮷 明治38.11~41.9
4代 細木 喜作 明治41.10~大正2.8
5代 万並 芳蔵 大正12.9~13.9
6代 坂田 勝蔵 大正13.10~昭和3.10
7代 梶 太朗 昭和3.10~7.10
8代 西門 太次 昭和7.10~10.6
9代 山田 泰二 昭和10.6~12.10
10代 本田 三郎 昭和12.12~14.2
11代 細木 稔 昭和14.3~15.2
12代 作田 良三 昭和15.5~21.9
13代 中尾 重三郎 昭和22.4~23.8
14代 西垣内 喜一 昭和23.10~26.3
『山口村誌』
初代 松原 嘉平
一代 公地 嘉平 明治二三年五月二三日 同 二十六年五月二十二日 四年
氏は天保四年(一八三三)十一月十六日、兵庫県武庫郡山田村谷上に生まれる。幼時後藤順徳について国漢を学び、のち公地弥満登(公智神社社司)に養われて松原家を相続した。
この松原家は、明治維新まで大阪長柄田安家のこの地方における郷宿をつとめ、翁もたびたび江戸・大阪の間を往来し、有馬郡はもちろん付近田安領内のために尽力された。
明治六年五月有馬郡第十九区下山口村副戸長を最初に、同十年十二月下山口村戸長、同十三年七月下山口村外三か村戸長となり、同十五年五月山口組学務委員担任を兼務、同十六年七月下山口組戸長兼山口組学務委員担任を命ぜられた。ついで十九年十一月には、准判任官十等給を受けた。
その他流行病検疫事務、又は地押調査事務等に従事し、同二十二年五月、満五か年以上奉職したので、現俸給の三か月分を下賜された。
明治二十二年四月町村制が実施されると、山口村会議員に当選し、同年五月推されて初代山口村長に就任した。同二十六年五月満期退職した。
公職を退任した後は、同三十七年七月、先代公地弥満登の後を継いで山口村郷社公智神社の社掌となり、翌三十八年三月、同郡道場村平田、村社稲荷神社の社掌を兼ね、もっぱら神事に尽くされたが、老後の兼務は充分の奉仕ができないとの理由で、大正六年六月から公智神社のみ奉仕されていた。
大正九年三月神職を辞し、同年先考公地家の断絶を憂え、同家を相続して公地姓を継がれた。
神職退官後は、ひたすら余生を読書、盆栽などの趣味に送られていたが、大正十二年一月六日九二歳の天寿を全うされた。
二代 芝 虎之介 明治二六年五月三一日 同 三八年一一月三日 一一年六か月
芝家は有馬郡内でも有名な門閥家で、その所有財産は、時には大名をもしのぐほどであったといわれた。氏は天保十三年(一八四二)上山口に生まれた。明治十四年一月三八歳で上山口総代に推されて以来、同三十八年十一月村長退職までの二〇有余年、その半生を公事に捧げた。
その職歴を記すと、明治十七年五月有馬郡下山口村外四か村戸長役場部内農談会員当選、同月有馬郡第二番学区学務委員、同年六月下山口村外四か村戸長役場連合会員、同年八月山口村会議員、同年十一月有馬郡連合会議員、同十九年二月有馬郡勧業会委員、同二十年七月有馬郡所得税調査委員、同二十二年四月町村制の実施に際し、山口村会議員となり、その後再選四回、同三十四年四月満期退職された。
その間明治二十二年七月有馬郡内各町村会議員に当選、同二十四年四月推されて山口村名誉助役となり、同二十五年七月有馬郡各町村組合議員、同二十八年五月再選、同年十月有馬郡三田町外十一か町村学校組合議員、同二十六年五月助役辞任とともに村長となり、同二十九年七月郡制の施行によって有馬郡会議員に当選、その後同三十七年十一月三日村長四期当選、後病のため死去された。
氏は資性温厚篤実、気品高尚、仁狭に富み、小作人の年貢未納者などにも一度の催促もなく、自らの所有山林内の枯れ木などは進んで村内の人々に伐採させるなど、徳望と仁愛は村民の敬慕するところであったという。
また明治二十年三月、三田町に有馬郡立小学校が建設される時は、その敷地を無償提供し、その他公共事業への寄付も多かった。
三代 梶本 房吉 明治三十八年一一月二二日 同 四十一年九月二十五日 二年二か月
氏は文久三年(一八六三)正月二十四日、先代市郎兵衛の二男として上山口一二一番屋敷に生まれる。同家は代々庄屋をつとめた家柄で、氏の少年時代の履歴については詳らかでないが、若いころ同家に村の青年を集めて夜学を開いていたという。同二十二年四月、町村制が実施されその第一回の村会議員に当選以来三期村政に参与、その間同三十八年十一月二十二日村長に推薦された。また同三十四年より三期上山口区長代理者などもつとめ、村長退職後有馬銀行の頭取の要職につき、大正七年九月一日没。
四代 細木 喜作 明治四一年一〇月二十二日 大正二年八月二十八日 四年一〇か月
氏は明治六年六月十五日、喜兵衛の長男として上山口に生まれる。幼児のころから英才の聞え高く、明治十九年神戸農事試験所の前身、植物園において農業実務について研修ののち、乾行義塾にて英・漢・数を学び、さらに上京して同人社に入学、普通学を修すること三年、同二十五年帰村ののちは家業に専念されていた。
しかし養蚕の将来性に着目し、その技術習得のため、同三十三年四月より翌年六月までの間、群馬県高山荘、同佐波地方、および長野県浅間などの先進地において研修を重ねた。
また早くから公共の志篤く、明治三十一年同志と図って山口村郷友会を創立して農村青年の自覚を促し、同三十九年六月上山口区長に選ばれるや、部落有財産の整理統合を断行し、上山口産業組合への基盤を確立された。
氏はその性寡黙にして清廉実直、緻密な計画のもとに率先して物事を実行された指導者であった。すなわち明治四十一年十月、村長就任以来、大正十二年八月退職されるまで村自治の最高責任者としての主な業績をあげると、
一 租税滞納金の整理 二 在郷軍人会の充実 三 産業組合の設立 四 未公認社の合祀 五 学校敷地の買収と校舎の新築 六 公設消防組の設置
七 「山口通信」の発行 八 社会教育関係団体の設立とその育成
などの各方面に亘り、今日村治の基礎を確立した偉大な恩人といっても過言ではない。
ことに社会教育の振興には特に留意し、一村自治の発展は、戸主・主婦の啓蒙自覚こそ肝要なりと、明治四十五年月従来の婦人会と併立して戸主会を設立した。そのほか青年会、処女会、尚歯会などの創立や、その育成には格別の力を傾けた。
また帝国在郷軍人会山口村支部長、日本赤十字社及び海員掖済会分区委員、大日本武徳会有馬支所評議員、第十回西府県連合共進会有馬郡委員、忠勇顕彰会山口村委員、山口村農会長、兵庫県農会議員、有馬郡農会評議員、兵庫林会終身会員、有馬郡畜産組合第六区長、有馬郡町村会幹事、有馬郡農会特別議員などの要職を歴任し、村内にあっては郷土産業竹製品振興のためその先進地を視察し、新しい技術と工夫の導入をはかり、大正九年県営山口竹林試験設置にあたっては、その管理責任者として保護育成に努めた。
さらに大正十一年県部落別米麦改良事業に関係し、同十年度産米麦品評会において下山口部落が郡農会の一等賞、十一年度産に名来部落が同じく一等賞を獲得、いずれも経験豊かな氏の指導によるところが多かった。
大正十一年八月一時病のため村長および農会長を辞任したが、同十四年一月、上山口信用購買組合監事、同年四月村会議員に当選、昭和四年四月議員満期ののちは余生を悠々自適、趣味の読書に過ごしていたが、同九年二月十九日六〇歳をもって逝去された。氏の功績に対し受けた賞状と感謝状は次の通りである。
明治四十三年二月忠勇顕彰会翼賛のための寄付に対し同会頭より感謝状と徽章。
同四十四年山口小学校新築費寄付により本県知事より木盃と賞状。
大正五年二月教育事務の尽力に対し本県知事より表彰状と蒔絵硯箱一個。
同八年三月十日多年軍事功労者として陸軍大臣より表彰状と銀盃一個。
同十一年三月本県農会長より在職一六年、終始会務の枢機に参与し、その進展に貢献しその功績顕著により表彰状銀盃一個。
同十二年二月明治四十一年以来在職中自治の発達及び社会教育の啓発に尽瘁し、その功績により有馬郡長より銀盃一組表彰状
同年十一月、多年村長在職中の功労により、山口村議会の決議をもって感謝状、記念品および本村名誉職優遇規程によって、山口村名誉章を交付された。
最後に氏は大正四年十一月御大典に際し、特に地方饗饌の栄を受け、大礼記念章を授与された。その御大典記念事業として、山口村誌の資料収集と原稿の整理に尽力、その草稿は「大典記念 山口村誌」として編述され現在も好資料として保存されている。
五代 万並 芳蔵 大正一二年九月七日 同 十三年九月十九日 一か年
氏は明治七年三月六日、先代源三郎の長男として下山口に生まれる。祖父嘉兵衛は江戸時代最後の庄屋をつとめ、しかも明治初年引続いて戸長をつとめた家柄である。
氏は大正二年四月村会議員当選以来二期、その間同六年二月助役、同十二年村長などを歴任、村政のため献身的な努力を惜しまれなかった。殊に学校教育、土木、植林などの充実と振興を重点に、又農産物としての野菜の栽培と、その販路拡張のためたゆまぬ努力を続けられた。
しかし病のため村長の職も一年で退職、その後昭和三年五月、自宅を改修して山口郵便取扱所を開設、その局長とし郵政事業をはじめて、以来今日まで続いている。
また山口信用組合のためにも尽力したが、昭和三十五年四月十八日八六歳の天寿を全うされた。
六代 坂田 勝蔵 大正十三年一〇月二日 昭和三年一〇月一日 四か年
氏は慶応三年(一八六七)三月八日船坂坂田元治郎の長男として生まれた。
青少年時代は新生日本の動乱期に当たり、国内騒然たる中にもよく時代を達観し、公共的信念に燃え、生涯を地方自の振興と郷土開発のために尽力した。
即ち明治二十七年四月、収入役として公職について以来昭和三年十月、村長退職までの三〇有余年間、村自治のため献身されたのである。その公職歴は前記のものを除くと村会議員、船坂区長、同代理者などである。
その間明治三十七、八年戦役に従軍、帰還ののちは、村政に参与しながら、同四十二年十一月、本村ではじめて船坂に信用組合を創立、その初代組合長として地区の産業振興に努力された。
また明治四十四年九月と、大正四年九月、有馬郡会議員に選ばれ、同十四年四月十四日山口農会長兼務、その間従来各地区に設置されていた信用組合が、時代の推移とともに統合されることになり、山口信用組合と改称されその組合理事、ついで同十五年一月二十四日組合長に就任した。
また氏はさる明治三十三年以降船坂地区のうち下ヶ平柏木谷、唐子、大ふくら、清水谷、北山鯉塚などが県の砂防地に指定されたとき請負人に指定され、同地方の砂防工事責任者として以来二〇数年の間該工事を担当した。
なお現在の蓬莱峡の名は、氏が青年時代朝鮮の景勝地蓬莱山に遊び、その景色のよく以ているところから付けられたものであるといわれる。
昭和十四年一月三日七一歳で没。
七代 梶 太朗 昭和三年一〇月二日 同 七年一〇月一日 四か年
明治十八年四月一日の生まれ、同二十五年三月山口尋常小学校を卒業し、有馬高等小学校を中退、大阪簿記学校を卒業ののち軍務に服す。除隊後、上山口信用購買組合長となり、後退職して西宮銀行三田支店に勤務したが、また前記上山口信用購買組合に復職。大正二年から同十年四月まで二期村会議員、同十一年有馬郡会議員に当選、その後昭和三年十月村長、退職後同八年四月村会議員となる。
昭和十六年四月三十日役。
八代 西門 太次 昭和七年一〇月八日 同 一〇年六月六日 二年八か月
「農村は都会の経済的な圧迫から免れなければならぬ。農村疲弊の原因は実にここにある。都市生活の向上とともに農村の生活向上が先決で、今日農村の悩みは、この生活の向上に対して経済力が伴うかどうかにかかっている。都市はその有利な地位を利用して地方から利益を吸収し、経済的圧迫を加えている。その圧迫から免れるためにはどうしたらよいか、その一つの方法として産業組合の活動に待つほかはない」こういう持論から氏は産業組合設置の急務を説き、遂に大正二年二月、中野信用販売購買組合を設立し、その初代組合長に就任した。
氏は明治十一年四月十五日、太右衛門の長男として中野に生まれた。父は戸長、村総代、組長、区長、村会議員を歴任された本村自治の功労者で、西門家は地方の旧家で代々農業を営まれた名門である。
氏もまた明治三十七年以来村会議員として一七年余、昭和七年十月推されて村長となり、父子二代に亘って地方自治の振興に尽力した。
昭和二十四年四月十九日七一歳にて逝去。
九代 山田 泰二 昭和一〇年六月一三日 同 一二年一〇月二六日 二年四か月
氏は先代泰雲の二男として、明治九年一月十二日上山口山田家に生まれた。同家は代々医術を業とし、その祖先は京都において御典医をつとめた家柄であったといわれる。
氏は大阪医科大学卒業の後、東京伝染病研究所および北里病理研究所において満八か年医学を究め、「ペスト菌染色」外数編の研究を発表し、一躍東都医学界にその令名を馳せたのである。
本来寒村に埋もれるような人材ではなかったが、氏は常に、「国民保健は地方僻村の衛生完備をもって国力増進の基盤とする」との信念から、家業を継いで医術救世の大理想に邁進され、その尊い姿は父子二代に亘って万人敬服の的でもあった。
しかも氏は医術のみならず、高潔な人格と、卓越した識見は地方政界の注目するところとなり、郡内医師会長、大正八年には郡会議員に当選その議長に推され、大正十二年十月山口村助役、昭和十年六月村長に当選された。その政治姿勢は全く名利毀誉を超越し、地方自治の発展を願う公共的精神の具現ともいうべく、その態度は常に清廉潔白、私事を抛っての尽力は救世主のような姿であったという。さらに地方産業の振興にも意を注がれ、山口信用組合の創設、有馬銀行取締役として金融界にも貢献されるところ大であった。
氏もまた和歌に長じ、名を〝風斗"と号し、余生を趣味に過ごされていたが、昭和十四年十二月二十九日六三歳をもって一生を閉じた。
一〇代 本田 三郎 昭和十二年一二月二十二日 同 十四年二月二六日 1年二か月
氏は上山口本田家八代の当主で、代々三郎右衛門を襲名した家柄であったが、六代目に男子がなく、七代目の尊父新蔵が養子として迎えられ、氏はその長男として明治十九年十一月二十九日生まれた。
青年時代、これからの農業は米麦のみに依存していくことは許されず、副業の必要性を強調し、自ら研究してセロリの栽培に専念し、これを村中に普及奨励した。今日不時栽培野菜の先駆をなすもので、その先見の眼には敬服するものがある。
明治四十三年三月上山口信用購買組合が創立され、氏はその幹事となり、昭和三年には再度組合長として奔走。当時郡内において優秀な組合組織を達成された。
その後大正十年四月、村会議員当選以来四期、昭和十二年二月助役、同年十二月村長として村自治に貢献されていたが、昭和十七年三月十四日五五歳で逝去された。
一一代 細木 稔 昭和一四年三月七日 同 一五年二月一九日 一一か月
明治三十四年一月五日、喜作の長男として上山口七〇番屋敷に生まれる。
大正五年三月有馬郡立有馬農林学校を卒業、同八年二月三田中学校において理化学教室の助手に勤務のかたわら、校にて英・数・物理・国・漢文の授業を聴講し、同十三年十二月文部省専門学校入学検定試験に合格し、翌十四年八月慶応義塾大学生物学教室において、理学博士岡村周諦先生の植物形態学、植物生理学の実験講習をうけ、さらに同年九月東京農業大学予科の聴講生となり、翌十五年四月同大学の試験に合格し予科二年に編入した。卒業とともに東京帝国大学農学部に入学し、専ら農業植物の遺伝の実地研究と同時に、細胞学、遺伝学を中心として植物学を研究し、さらに昭和三年八月京都帝国大学において、木原均理学博士の実験遺伝学を聴講し、帰郷後も農業のかたわらこの方面の研究に余念がなかった。
その後昭和十二年三月上山口区長。同十四年三月七日山口村長に選ばれ、翌十五年二月村長退職、同十七年五月村会務員に当選したが、任期中の同二十二年三月二十八日不幸病のため四六歳で死去。
二代 作田 良三 昭和一五年五月二一日 同 二一年九月三〇日 六年四か月
氏は西門太右衛門の五男として中野四〇番屋敷に明治二十年十一月五日出生、同二十七年上山口九九三番地作田作蔵の養嗣子となる。資性温厚篤実、同四十三年竹籠製造業作田商店の店主となって以来、その一生を竹製品製業造に終始一貫して今日に至っている。
その間郷土の農家がその耕地の狭小にして貧窮なることを憂い、副業開発の必要性を強調し、明治初期から製造されていた竹器の改良と、生産増強に尽力し、その品質改善と技術の向上にたゆまざる研鑚努力によって、今日の「有馬籠」の名を国内はもちろん、輸出品として重要な地位をしめるに至った。
業界の最長者として、又大先達としての業績は枚挙にいとまはないが、その主なものをあげると、
一 同志と計り国庫及び県費の助成によってわが国ではじめて竹製造業の従業員養成所を建設し、広く全国から籠の権威者を招き、技術の習練と技術者の養成に努めた。この結果山口の総戸数七〇〇余のうち竹製品に従事するものその半数以上に達し、農村副業としての経済的地位の向上と、村経済の維持発展に重要な地位を確保した。
また自らの県の委嘱を受け広く県下を行脚し、竹製品製造の技術を普及して農村特産業を興し、その養成した技術者は数百名にも達し、竹製品の生産県として大分とその一、二を争っている。
二 大正六年特殊「竹ヘギ」機を発明して、従来の生産能率を十数倍もたかめ、品質の改善においても、いわゆる「ダブル蝶番」など四種類の実用新案特許をとり、その品質の堅牢とデザインの優秀さは、常に全国農村工業品副業品輸出展示会や、全国各地の輸出雑貨振興展示会においても、「有馬籠」の名声を博し、入賞すること数限りがないほどである。
三 明治中期ごろから輸出品として竹籠の販路拡充に努め、アメリカ、中南米はもとより欧州方面へも順調にのび、竹籠の作田商店として山口の竹製品の年産高の七〇パーセントを輸出している。
四 昭和二十四年兵庫県竹産振興会副会長及び、有馬竹製品商工企業組合理事長として、共同施設を二か所設置、生産の改善と増強、原竹の共同購入、製品の販売価格調整等経営の合理化と会員の指導育成に不断の努力を続けている。
五 昭和初期、台湾台中州竹山村に竹材採取工場を建設し、同十九年まで内地の竹材を補強するとともに、台湾竹を内地に移植して竹材の品質改良を図り、また竹林同好会を組織して竹林の保護育成精神の普及に努めている。
などで、その間の経歴は、
大正十年四月 昭和十二年四 山口村会議員当選以来四期
昭和四年二月 同 五月二日 山口信用組合理事長
同 十五年五月 同 二一年九月 山口村長
同 十六年 同 十九年 日本竹製品連盟兵庫県支部長
同 十九年四月 同 二十年八月 山口農業会長
同 二十四年 現在 兵庫県竹産振興会副会長
同 二十四年十月 現在 有馬竹製品商工企業組合長
などで業界はもとより村自治のためにも寄与されるところ多く、昭和十三年四月十九日、自治制発布記念五〇周年を記念して表彰を受け、また同十九年七月には、国民貯金増強に貢献されたことによって、兵庫県知事から表彰された。
一三代 中尾 重三郎 昭和二十二年四月五日 同 二十三年八月十六日 一年四か月
明治二十五年六月七日、先代元蔵の長男として上山口一〇二二番地に生まれる。家は代々中野屋重兵衛を世襲した旧家で、紙漉業をしていたが、父元蔵の代、明治二十九年六月、テレピン、タールの油製造所設置の認可を得、その製造に着手していたので氏も山口小学校卒業後は父の後を継いだ。
テレピン、タール油は主として工業用に使用していた代用油で、大正中期にはテレピンは中止し、主にタールのみ製造、戦時中油脂不足の時は需要に応じきれない程であったが昭和二十年十月廃業した。
テレピン、タールの原料は松のカガリを煮つめて油をとるもので、原料二〇〇貫でタール五斗五升くらいとれ、その過程でとれるのがテレピンで単価はタールが一斗八五銭くらい、テレピンは三円五〇銭くらい(大正五年ごろ)、用途は造船所の進水時に使用する台に塗る油または砲兵工廠などに出荷していた。
その間氏は村内自治並に産業振興のため尽力されること少なからず、その経歴を列記すると次の通りである。
公 職 名 就任年月 退任年月
上山口区長代理 大正一四・ 二 昭和 三・ 一
有馬藤細工KK取締役 昭和 三・ 四 " 九・ 六
山口村会議員 " 四・ 四 " 八・ 四
上山口信用購買組合長 " 六・ 一 " 一二・ 一
上山口信用販売購買利用組合長 " 十二・ 一 " 一三・ 一
上山口区長 " 十六・ 二 " 二一・ 一
山口村会議員 " 十七・ 五 " 二二・ 四
山口村学務委員 " 十七・ 六 " 二二・ 五
山口村参与 " 十九・ 一 " 二〇・ 八
山口農業会監事 " 十九・ 四 " 二二・ 四
兵庫県松根油統制組合理事 " 十九・ 七 " 二〇・ 九
山口村長 " 二二・ 四 " 二三・ 八
村長ののちは、家業に従事していたが昭和四十三年二月十六日七五歳で没。
一四代 西垣内 喜一 昭和二三年一〇月一二日 同 二六年三月三一日 二年五か月
明治三十年七月二十日、菊松の長男として下山口一〇五〇番地に生まれる。山口尋常高等小学校を卒業後家業(農業)に従事していたが、大正六年徴兵検査に合格、篠山歩兵第七十連隊に入営、同八年満期除隊の際計手適任証書を授与され、大正十一年三等計手に任官。
昭和八年四月、はじめて山口村会議員に当選し、一期村政に参与したのち、神戸において商業を営んでいたが、昭和二十年三月十七日の神戸大空襲の際大火傷を負い帰村、同二十二年四月中尾重三郎村長のとき助役に就任した。
助役在任中、有馬郡食糧調整委員に当選、その委員長として戦後の食糧難時代に奔走し、あわせて有馬郡選出の兵庫県食糧委員としても活躍した。また同二十二年十月食糧供出のための作況調査には、県委員代表として、供出の公正化に格別の努力をそそいだ。
翌二十三年十月十二日、中尾前村長のあとを継いで村長に就任、特に村内各河川及び道路の改修土木事業に村政の重点をおき、地域の開発に傾注するとともに、教育、産業、経済などの振興にもつとめた。
同二十五年西宮市との合併の議起こるや、それまでの神戸市との合併を断念し、地域的に至難と思われたこの問題を精力的に解決し、有馬郡山口村を発展的に解村した山口村最後の村長である
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