明治22年(1889年、128年前)に名来村、下山口村、上山口村、中野村、船坂村の5つの村の統合によって、有馬郡山口村となりました。当時、金仙寺は、下山口村でした。
先祖が力をかけて開いた山や土地などを村有林に統一して、山口村の組織が財産管理を行っていましたが、昭和35年に財団法人山口町徳風会を設立して、財産を管理する組織は解散となり残余財産を徳風会は寄附を受けて、山口町の繁栄と福祉の増進を目的とし事業を実施してきました。
事業の内容については、昭和35年に山口中学校が現在の山口センターの地からこの場所に移転するに当たり用地の購入や建設費など多大の助成をし、更に徳風会が所有する土地を今も無償で貸しています。その場所はグラウンドの西側2,600㎡ほどで、グラウンド全体の4分の1ぐらいです。
また、昭和47年に山口小学校が現在の場所に移転するに当たり、用地の購入費用などの寄附もしました。
徳風会設立当時から現在まで、地域活性化のために色々な団体に助成金を出し、各団体の活動が維持継続できるように支援してきました。
所有する山林の整備を行い現在では、丸山のコバノミツバツツジの開花を良くするために日光が当たりやすいように他の樹木の整備を行っていますので、4月中ごろには、西宮南部の広田神社に負けないほどツツジが咲いています。その整備のおかげで丸山の登山道から見る景色はよくなっています。
また、高齢の方が健康維持のために丸山に登り毎朝ラジオ体操をされているグループもおられます。
毎年7月には、結婚後50年を迎えたご夫婦には、金婚の祝儀、60年を迎えたご夫婦には、ダイヤモンド婚の祝儀を行う行事を老人クラブと共催で行っています。
戦争で亡くなられた山口町出身者の霊を慰めるため、慰霊祭を毎年9月の秋分の日に行っています。その慰霊祭には、西宮市長、山口中、山口小学校の校長先生、PTAの会長、各種団体の代表の方など多くのご来賓にお参りにきて頂いています。
資料館については、徳風会が平成4年に、現山口センターの地から今の場所に移転する時に、地元住人の家に残っている古い書籍や生活用品などを保存する目的で、資料館の建造が行われました。山口には、古い建物が数多く有り、そのような家には、古い時代の書籍や生活用品が残されていますが、家を建て替えする時に放棄されると地域にとって大切な歴史資料が無くなるので、資料を提供してもらい、山口の歴史勉強に役立つように保存、展示を行い見学してもらう意味が有ります。
また、昔からの住人でなくても山口で生まれ育った人や他地区から移ってきた子供たちは、古くから歴史に恵まれた山口地域が、我が故郷になり、楽しみや満足感を得ることが出来ます。
名来の山中におおよそ1,500年前に遺骸を納めた古墳(青石古墳)が昭和40年頃に発見されて今も残っています。資料館に展示されている古墳発見時に出てきた須恵器や金属片の形状から1,500年前頃の古墳と判断されています。古墳には、一般の人では無く、その地域の支配者など見分の高い人を葬るので、当時からこの地域には、集落が有って支配者など居たようです。
公智神社も古くから祀られており1,100年ほど前に全国の神社を一覧にまとめた延喜式神名帳(927)に記載されています。
それ以降の資料は残っていませんが、江戸時代からの資料などが、沢山展示されています。
山口の産業(紙漉き、竹籠づくり、寒天つくり)の展示もあり、当時は盛んでしたが、今は全て無くなりました。江戸時代中頃から紙漉きをして、大阪、京都と取引をされていました。西宮市史に正徳6年(1719)の貝原益軒の「有馬湯山記」に「山口村上下に村あり、紙漉くところなり」と書かれています。
金仙寺口バス停の横に明治時代に大阪の紙問屋が建てた石の道標が今も残っています。
山口町は、産業が盛んな時期、裕福な家庭が多かったのか、江戸時代に浄瑠璃が流行り、その師匠となる方(竹本加治太夫)のお墓が、山口中学校西側のコイン精米所の北側に残っています。
また、盆踊りに踊られる袖下踊りの音頭は浄瑠璃調ですので、当時に取り入れられたようです。 歴史の話もさせて頂きました。
資料館の見学ですが、入館料は要らなくて、平日の10時から16時までで、休館日は、土、日、祝日、お盆、正月になります。
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