有馬農林学校長 細木喜兵衛君

 細木家は詳しい記録がないため、その由来を明確にすることはできないが、現在の当主から四代前の祖先が播州美嚢郡細川村から有馬郡山口村の上山口村へ移住したもので、もともとは貧しい農家であったが、非常に勤勉で細川家財産の基礎を築いた。

 次の代、すなわち現当主の曾祖父にあたる人物もまた、非常に倹約家で、農業の傍ら製紙業に従事し、朝から晩まで懸命に働き、やがて同村の中流階級の財産を持つようになった。その後、現当主の父宗兵衛氏の時代に至り、財産はますます増加し、やがて明治の時代となり、子どもたちの教育を深く重視された。現当主喜兵衛氏と次男で工学博士の松之助氏が今日あるのは、全くこの(父の教育重視政策)の恩恵によるものである。細木家は祖先以来主として農業を営み、氏も19歳までは家にいて農業に従事していた。ところが気が変わり、将来最も有望なのは教育家だと両親に願って教育界に身を投じるようになった。

 明治9年1月に神戸師範伝習所に入り、11年7月に神戸師範学校第一期卒業生として美郡小学校に赴任を命じられ、数校に奉職した後、有馬郡に転任して2、3の小学校の教員となったが、明治16年2月に有馬郡巡回訓導に任命され、17年4月に兵庫県会議員に当選して就職するため巡回訓導を辞任した。しかし長年教育に身を委ねてきた氏は、政治家に徳操がなく節制がなく、ただ詐欺や言いくるめの手段を弄して勢いに媚びるだけで、そのような者たちと事を共にするのは潔くないと考えるので、翌18年4月に辞任した。

 明治19年6月に再び出て教育に関わり有馬郡唐櫃小学校に勤務し、明治20年4月に有馬高等小学校長に任命され12年間勤続した。明治33年4月に有馬郡視学に任命されたが、38年3月に有馬農林学校が創立されるにあたり、その校教諭兼校長に任命され、それ以来今日まで至っている。この間、郡の教育事業の各種役員に任命されており、現在、有馬郡農会副会長、私立有馬会副会頭、有馬郡青年団副団長、三田尚会長などの職を兼務している。

 君は至誠至孝で、温良恭謙であり、人格が高尚で、人に接するのに篤実で親切である。どのような場面でも笑顔を絶やさず、いまだかつて怒りの表情を見せたことがなく、生徒を教導する際も心から丁寧に道理を説き、涙を流して諭すことを常としている。それゆえその感化力も極めて大きいものがあり、今や同校出身者で要職にある者は決して少なくなく、その農村への貢献力は極めて大きなものがある。年齢はすでに六十歳を越えているが、実に壮者を超えるほどの勢いがあって、常に生徒を率いて近隣の村まで馬糞拾いなどをさせるなど、その職への熱心さはどれほどのものか、到底後進者が及ぶところではない。特に氏は名利に走るのではなく、地位を望むのではなく、郷党教育を天職とし、始終一貫して倦まず、益々その手腕を発揮し、日々進む農林事業に対して新しい気を注ぎ、校規を宣揚して遺憾なきようにするなど、真に教育家の典型として将た教育界の異彩として後世に伝え範となすに足りる。

 なお氏の長子喜作氏は居村山口村の村長として、次男研氏は陸軍歩兵少佐として、共に良い名声があり、遉が教育の重責を担当して、活発な手本を示すことを思い起こさせる。幸いに自分を大切にすることを心がけ、鶴のような長寿で健康であることによって、ますます教育界のために奮闘することを祈る。

         『現代 有馬郡人物史 完』 (現代語訳のAI変換)

 細木家は記録の徴すべきものあらざれば之を明確ならしむるに由なしと雖も、現主より四代前の祖先が播州美嚢郡細川村より有馬郡山口村の内上山口村に移住しりたるものにて、固と細農なりしも非常なる勤勉家にて細川家財産の基礎を作りたるものにて、其次代即ち現主の曾祖父に當れる人が亦甚だしき勤儉家にして農業の傍ら製紙の業に従事し夙夜大に働き、漸くにして同村中流の財産を有するに至れり、其後現主の嚴父宗兵衛氏に至り産益々多きを加へ、程なく明治の御代となり子弟の教育に意を用ひられたること深く、現主喜兵衛氏並に次男工學博士松之助氏の今日あるは全く之に胚胎するものなり、細木家は祖先以來主として農を業とし、氏も亦年齡十九歳迄は家にありて農業に従事せり、然るに心氣一轉、將來最も有望なるは教育家なりと両親に請ふて教育界に身を投するに至れり、明治九年一月神戸師範傳習所に入り十一年七月神戸師範學校第一期卒業生として美郡小學校在勤を命ぜられ奉職數校にして有馬郡に轉し二三小學校教員たりしが、明治十六年二月有馬郡巡回訓導に任せられ十七年四月兵庫縣會議員に當選就職の爲め巡回訓導辭任したるが永年教育に身を委ね其志操清廉なる氏は、政事家に德操なく節制なく單に詐謀論詭事さし推勢に阿ねるを以て、能事させる輩と事を共にするを潔よしとせざれば翌十八年四月辭任せり、明治十九年六月再び出て教育家となり有馬郡唐櫃小學校に奉職し二十年四月有馬高等小學校長に擧けられ勤續十二ヶ年、明治三十三年四月有馬郡視學に任せられたるが三十八年三月有馬農林學校の創立せらるゝに當り同校教諭校長に任せられ爾来今日に至れり、此間郡教育事業の各種役員に擧げられたるが現に有馬郡農會副會長、私立有馬會副會頭、有馬郡青年團副團長、三田尚會長等を囑托せられ兼任せり、君は至誠至孝、温良恭謙にして人格高尚、人に接する篤實にして親切、如何なる場合と雖も微笑を堰へ未だ曾て憤怒の色を露はしたることなく、生徒を警しむるにも衷心より諄々として道を説き涙を流して諭すを常とせり、されば其感化力も亦極めて大なるものあり、今や同校出身者にして樞要の職に在るもの決して尠からず、其農村に及ぼす貢献力は極めて偉大なるものあり、年齒既に六旬に越ゆと雖も钁鑠真に壯者を凌ぐの慨ありて常に生徒に引卒し附近村落までも馬糞拾ひなせるなど如何に其職に熱心なるか、到底後進者の及ぶ所にあらず、殊に氏は名利に走るにあらず、地位を冀ふにあらず鄕黨教育を以て天職となし終始一貫して倦まず、益々其手腕を発揮し日進月歩の農林事業に対し新進の空氣を傾注し校規を宣揚して遺憾あらしめざるが如き、真に敷育家の典型として將た教育界の異彩として後世に傅へ範となすに足れり、尚氏が長子喜作氏は居村山口村の村長として次男研氏は陸軍歩兵少佐として共に令名あり遉がは教育の重任に在りて活手本を示すなるを偲ばしむ、幸に自愛を事とし鶴壽健在以て益々教育界の為に奮闘を祈る。

             『現代 有馬郡人物史 完』(古語)

西宮市山口町郷土資料館

西宮市山口町の歴史、伝統文化・産業、民俗資料を展示する郷土資料館です。 この地域で出土した七世紀の土器、645年大化の改新の立役者・孝徳天皇が当地に行幸されたことに関わる資料とその再現装束(着用体験もできます)、秋祭りで繰り出される檀尻(だんじり)の実物展示、伝統産業・竹細工を詳細に解説、等々に加え、昔の民具・農機具・教科書・写真などを展示するコーナーでは、実際に触って使ってみる体験もできます。

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