有馬郡山口村ノ内下山口村
松原家は祖先代々農業を業とせしも先々代より下山日村郷社公智神社祠官を奉職せり、先考嘉平氏は天保四年十一月十六日生、幼にして聰明博識天才の人にて長するに及び明治六年五月第十九區下山口村副長に擧げられ、十年十二月同村戸長、十三年下山口村外三ヶ村戸長拜命、十五年五月山口組學務委員兼任申付けられ、二十二年四月町村制實施の際舉げられて村會議員となり、同年五月舉げられて山口村長となり町村制實施事務の難局を處理して名聲を博し、二十六年五月満期退職したるも爾村會議員共他公務に盡瘁し村の柱石として村民に崇拝せられたる徳望家たりしが、明治三十七年七月先考の後を襲ひ郷社公智神社々掌奉職爾水専ら神事に仕へ亦公職に出でず、三十八年三月平田村社稻荷神社々掌兼務申付けられ昨年十一月御大典に當りては八十五歳の高齢て陛下より木盃一個と酒肴料を下賜せられたり、
氏は明治六年二月二十八日同村津田佐兵衛氏の次男に生る、其小學校を卒業するや明治二十三年四月兵庫縣尋常師範學校に入り二十七年三月卒業、直に三田尋常小學校訓導に任せられ、二十九年五月有馬高等小學校に轉し在職七ヶ年にして三十六年四月同郡加茂尋常高等小学校の新築せらるゝや擢でられて同校訓導兼校長となり、三十七年一月郷里山口尋常高等小學校訓導兼校長に轉じ在職十一ヶ年にして更に赤大正四年四月三田尋常高等小學校訓導兼校長に轉じ、三田裁縫學校長並に訓導を兼任して今日に至れり、此間即ち明治二十七年六月六週間現役兵に服せり、同三十三年四月年功加俸二十四圓給輿以來增加し現今七十八圓を給せらる、尚三十七年二月普通教育に関する職務に精励したる廉に依り縣知事より金五圓を賞典せられ四十年三月多年小學校の教育に従事し精励其職に蒸し成績優良の廉に依り金二十圓四十五年二月更に同様の趣意にて金五十圓賞典せられたり、三十八年二月松原家を相續し松原姓に改む四十二年一月文部省より普通免許状下付せられたり、
君は資性温厚の中に覇気を有し、進取的氣象に富み明晰なる頭腦常識の圓熟せるは稀有の教育家にして郡内小學校長中の重鎮として名聲噴々、今や其牛耳を執るに至りたる亦之れか故ならんか、然れども職務外他に貢献の大なるを見ずと雖も美嚢、多紀朝來、多可の各郡に手工科教授の講師として招聘せられ亦川邊郡へは時々唱歌科教授の講師として聘せらるゝ等其手腕の凡ならざるを知るべし殊に亦氏は如何に郡内教育に留意し研究しつゝあるか其談に曰く「現今自分の研究としては小學教育の内容改善と女子教育の改善にあり小學教育の改善進歩は近時著しき發達を呈しつゝありと雖も宇内の大勢は更によ以上の考實施を要求しつゝあり我國固有の國民性の長所を發揮せしむると共に世界の情勢に鑑み一等国民として遜色なき帝国臣民を養成せざるべからず、特に欧州戦亂は我等教育者に向ふて偉大なる反省と注意を寄與しつゝあり又女子教育と云ふも小學時代にあらず卒業後の女子教育にあり、本郡に於ては男子に向ふては先ず教育機關具備せりご稱して可ならんか、即ち三田中學あり郡立農林學校あり亦之れらの學校に入學せざるものと雖も各村殆ご靑年圑の設けありて學力の補習は勿論德育体育方面の修養も併せ行はれつゝあるに拘らず、女子に對しては著しき教育機關なし、漸く小學校併置の實業補習學校か裁縫學校に入學して裁縫手藝の智識を修め傍ら小學校教育の補習をなすに過きず爲に上流の家庭にありては其子女を坂神地方の女學校へ入學するの巳なきに至り中流以下は之れら地方の裁縫師匠又は裁縫學校へ委すの外なきなり、爰に於て是等の入學を受けたる裁縫學校は之れを如何にして教育するか之れ大に女子教育研究の必要なる所以なり云々」眞に氏の言の如く有馬郡現在の女子教育は郡民の等し遺憾とする所たるなり、吾人はそれが機関の設置を當事者に要求すると共に、君其心して其研究の徒勞に歸せざる様努力せられんことを祈るものなり。
『現代 有馬郡人物史 完』(古語)
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