京都市外下鴨村住
氏有馬郡上山口村の人、細木喜兵衛氏の令弟なり明治十二年神戸師範學校に入り、同十五年同校を出でゝ直に工部大學に入る、後帝國大學となるや工科大學に移り、同二十一年大學を卒業せり、當時尚官尊民卑の風習盛にして苟も青雲の志あるものは爭ふて法科若くは他の官海に入るに徑提なる學科を選び、工科に入る者は言はヾ一種の物數奇の如くに冷評せられたりき、然るに氏は立國強富の要は工業にあることを思惟し工科を選びたるもの、又一見識ありと云ふべし。氏は大學在校中の約により、卒業後直に淺草職工學校の聘に應じ、同校は其後工業學校となり、更に高等工業學校(現今の東京高等工業學校)となるに及び明治二十五年歐洲留學を命ぜられ獨逸伯林工科大學に入り、同二十八年歸朝、同年工學博士の學位を授輿せらる。斯くて高等工業に在るここ十餘年にして京都帝國大學工科大學に轉じたり、氏が専攻の學科は應用化學にして就中窯業に就ては我國に於て氏の右に出るものなく其セメントの製造應用に就ても亦氏の技術に待っ所多く、されば大藏省臨時建築部囑託として横濱、大阪、神戸築港の顧問として多年盡瘁する處ありたるが明治四十二年病の為に教授の激職に堪へずとて大學を辭し一時休職を命ぜられたるが、静療其宜しきを得て間もなく全癒したれば爾來實業界に入り今や日本陶料會社顧問兼専務取締役として雄躍するに至れり
君は資性謹直にして温良、人を待つに恭儉眞に君子の風あり、頭脳明晰にして考慮周密其卓越せる手腕は悎に我國工業界をして長足の發展を期せしめたるに興つて力ありと稱するも過言にあらざるなり、獪將來君に俟つもの決して鮮少ならざるべし、君年歯向春秋に富む、幸に自愛を事とし益々國家の為に貢獻を祈る。
『現代 有馬郡人物史 完』(古語)
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