有馬郡山口村の内下山口村
祖先は近衛公の臣にして藤原長嗣と云へる人あり文正年間來りて金仙寺丸山五郎左衛門に仕へたりしが、天明元年故ありて其子孫民間に降り製紙業を始む是れ今日の山口紙の元祖にして、以來五代目に至り時の領主田安候より岡田姓と帶刀を許さる、茲に於て藤原の一字藤を名として岡田藤兵衛と稱するに至れり、後ち藤兵衛の一子居を下山口村に移し名を長二郎と改稱す、即ち氏は其の愛孫たり、嘉永二年十月現在地に呱々の聲を擧ぐ、明治四年三月擧げられて下山口村區長となり、五年八月地租改正委員となり八年十一月下山口外三ヶ村學校世話掛兼建築委員當選、九年二月山林改正委員十一年下山口外三ヶ村組合會議員當選、十四年三月有馬郡町村聯合會議員に擧げられ同年四月同聯合會に於て東南區總代に當選、同月下山口村外三ヶ村聯合會議員十七年八月下山口外三ヶ村會議員、同年九月有馬郡町村聯合會議員再選、同月山口村戸長役場郡内聯合會議員となり、二十年四月下山口村總代二十一年二月有馬郡町村聯合竝に山口村部内聯合會議員滿期、二十五年四月山口村會員議當選、二十七年二月日本赤十字社有馬郡委員囑託、三十二年十月有馬郡會議員に擧げられ、三十三年七月郡會常設委員に擧げられ同年有馬鑛泉毒除害地々主総代三十四年同毒除害地普通水利組合會議員に舉げられ、三十五年學校殘務水利土管布設殘務四ヶ村共有山賣却選定協議員に舉げられ三十六年八月山口村衛生組長に擧げられ四十年五月山口村助役に舉げられ、爾來引續き今日に及べり、尚此間實業界にありては三田倉庫株式會社取締役、山口起業銀行専務取締役、名鹽銀行頭取等に舉げられ、政治界にも實業界にも重く用ひられ貢獻せる事蹟は實に枚舉に遑あらず、明治三十年日本赤十字社より功勞顕著なりとて木杯一組に感稱状を又明治四十年山口村よりは多年村政に貢獻せる慰勞として銀盃一組を贈輿せられたり、此一事以て村内に於ける徳望と名聲を知るべし、
君は實に資性温厚、人に接する篤實圓滿にして爭ひを好まず、事に常て熱心努力を惜まず、緻密なる頭脳を有し注意周密にして村内の事君が記憶に存せざるはなく眞に山口村に於ける萬年暦にて山口村に於ける柱石たるなり、年齒既に還暦を越ゆるも钁鑠壯者を凌ぎ村政を親閲して終日倦まず、君が生命は村政にあり益々自愛を事とし健在以て晩年の美を成せ。
『現代 有馬郡人物史 完』(古語)
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