有馬郡山口村の内上山口村
翁は丹波篠山藩士深津辰吾氏の令弟にして天保十年篠山の藩邸に生る、幼にして穎悟怜悧活潑にして頗る強記、郷黨神童とさへ稱したり、幼時篠山藩塾に學び長ずるに及び選抜に逢ひ同塾の教師を命せられたり、在ること数年後ち志を立て醫たらんことを望み笈を長崎に負ひ、洋醫の大家に師事して學ふこと數年業成りて藩に帰へる、偶々媒介者あり有馬郡山口村の内上山口村なる山田家に入り嗣子となり醫術開業したるが、是れ郡内に於て洋法を醫術に應用せる刀圭家の嚆矢にして其名聲は忽ち遠近に轟き、患者踵を接して集ふの隆盛にて、明治維新に際し官より召されたること数回たりしも五斗米に膝を屈するを潔よしとせずとて固辭して出でず、されど現今の如く薬價を請求するでなくお禮をすればよしせぬからとて不顔をするでなし、自ら淸貧に甘んじ好んで貧者に施診施薬を爲すを樂とせり亦極赤貧者にして病む者あれば自ら其病床を訪ひ施薬施療は勿論米穀を惠み慰め、其全治するを見ては我身の如くに喜び、毫も其れを恩とせしむるなく、眞に翁の行動こそ、往時醫は仁術と稱して宗教家と同じく社會に超然として清貧自から甘んじ人を救ふを以て天職と稱せし趣味を解し其任務を遺憾なく發揮したる人にて、現代刀圭家の模範とすべき稀有の隠徳家たりしなり、積善必ず餘慶あり、眞に宜なる哉、二男三女あり、長男太良氏は醫を以て陸軍に投じ、明治二十五年十二月三等軍醫に任官以来累進して大正元年九月一等軍醫正となり、大正四年十一月軍醫監に任せられ現に從五位勳三等功四級にして第十六師團軍醫部長の榮職にあり、本郡出身陸海軍人中、將官相當の榮官を贏ち得たるもの氏を以て嚆矢となす、山田家の名譽無上と稱すべきなり、二男泰二氏亦専門醫學校を卒業して、父祖の業を襲き現地に醫を業として令聲を馳せ、家運益々隆昌、三女何れも好配を得て榮ゆるは皆人の羨望する所なり、殊に翁は幼時詩を學び堂に入る明治百詩選中の一人たり、中年和歌門に入り名吟尠からず、平素山陽に私淑し書風亦山陽に髣髴たり、郡の内外遺墨頗る多く、今や翁逝きて亦物するを見る能はざれども其流れを汲む令息二氏何れ劣らず風流に志深く聲名あり、山田家の繁榮偉大なりと稱すべきなり。掲ぐる寫眞は翁夫婦と令息二名なり。
『現代 有馬郡人物史 完』(古語)
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